東京裁判という茶番「A級戦犯」なんていない

※茶番(ちゃばん):底の見えすいた、下手な芝居。茶番劇とも。

<米国人弁護士が「断罪」東京裁判という茶番> 

ケント・ギルバード[著] KKベストセラーズ[出版]

(P100)東京裁判では、いわゆる「A級戦犯」の容疑者が裁かれた。ところが、これがまた、まったくの茶番であった。「A級戦犯」の被告は、どのような基準で決まったのか。被告は28名だった。先に少し触れたが、この28名という被告の数は、あろうことか、東京裁判の法廷で、被告のつく座席を並べることのできるスペースに合わせて決められたのだ。

(P103~105)「罪」というのは、「法」がまずあって、それに違反したときに生じるものだ。法で定められていないときに、ある行為をしたからといって、後になって法を定めて、法がなかったときの行為を「違法行為」としてはならない。「罪刑法定主義」の原則があるからだ。「法なければ、罪なし」である。ところが、東京裁判は、それまでなかった「平和に対する罪」や「人道に対する罪」をつくって、過去の日本の政治・軍事の責任者を裁こうとしたのである。・・・こんな無法がアメリカによって実行された。それが、東京裁判の本質を表している。・・・東京裁判の問題点は、「公正」を欠いていたというような、そんな次元の話ではない。戦勝国が、敗戦国による主張を封じ込め、結論ありきで、容疑者を抽出、逮捕して、処刑したことだ。正に史上最大の冤罪事件でもあった。

私は日本人として、過去は過去、過ぎたことは水に流して、今は静かに亡くなった方々への感謝とご冥福をお祈りしたいと感じるのだが、国際社会ではそれは許されないようで、日本の周辺には、今でも執拗にプロパガンダ攻撃を仕掛けて来る国家がある。だから、そのような根拠のない、ヤクザのいいがかりには、国として断固とした態度で臨まなくてはならない。

いまさら裁判のやりなおしとか復讐などは求める気はないが、東京裁判がいかに出鱈目で、とても「裁判」とは言えない茶番でしかなかったということに、日本人は目を覚まさなくてはならない。

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