「 アドラー 」一覧

今日を今日のためだけに生きる

 

<幸福の哲学 アドラー×古代ギリシャの知恵> 

岸見一郎[著] 講談社現代新書[出版]

 

本の題名だけ見ると某宗教団体のアレみたいですが違います。ベストセラー『嫌われる勇気』の著者である岸見一郎先生が、専門のアドラー心理学、ギリシャ哲学、三木清の哲学など紹介し、ご自身の体験を交えながら、「本当の幸福」とは何かについて、じっくり深く考えた思考の軌跡です。

 

結論から見ると、虎舞竜のロード「何でもないようなことが、幸せだったと思う~♪ 何でもない夜のこと、二度とは戻れない夜ぅ~♪」とか、明石家さんまの昔のCM「幸せって何だっけ、何だっけ~♪」なのですが、そもそも哲学というのは、当たり前のことを当たり前だとなぜ言えるのかを考える学問だと私は理解しているので(人間がひねくれているとも言いますが)、この本は私にとっては大変読み応えのある本でした。

 

以下は、この本を読んで私の心に残った筆者の言葉です。

 

人は何かの出来事を経験するから不幸になるのでも幸福になるのでもない。

どんなに苦難に満ちた日々でも、ともすれば見逃してしまうかもしれない瞬間にこそ、本当の幸福は潜んでいる。ささやかな幸福以外に幸福はない。たとえその人が、どんな状況にあっても。

一度は死にかけたことも、またいつかは死ぬことも忘れて、今日という日を今日という日のために生きることができるようになった。このように思えればこそ、日々の何気ない瞬間に幸福を感じられ、何かの実現を待たなくても、今ここで幸福であることに気づくことができる。

幸福は、しばしばそれと同一視されることがある成功や幸運、さらには幸福感とは違う。

 

「何かになる」ことが、例えば「幸せな結婚をすること」、「仕事で大成功を収めること」などが幸福になるための前提だと考えていると、それが達成されるまでは幸福ではないことになる。しかし、たとえ目指す目標が達成された場合でも、果たして本当に幸福になったのでしょうか。「幸せな結婚」の先に「不幸な離婚」となった話なんでざらにあるし、社会的に大きな成功を収めることが、必ずしも本人の幸福には結び付かないことはよくある。

 

何かになるから幸福になるのではなく、本当の幸福とは何かを考え続けることを通して、「今ここ」で幸福であることを実感できる感性を磨くことが大切なのではないでしょうか。

 


「普通であることの勇気」を持つ

※岸見一郎先生の著作、「嫌われる勇気」の要約です。私自身のアドラー理解のためにやっていることですので、私の理解により見出しや文章は一部変更していることをあらかじめご了承ください。

 

なぜ「特別」になる必要があるのか? それは「普通の自分」が受け入れられないからでしょう。だからこそ、「特別によくある」ことがくじかれたとき、「特別に悪くある」ことへと極端な飛躍をしてしまうのです。しかし、普通であること、平凡であることは、本当に良くないことなのか。実は誰もが普通なのではないか。そこを突き詰めて考える必要があります。

 

「普通であること」に対して、何か能力が劣っているとか、人生で自己実現が出来なかったとか、マイナスのイメージを持つのは間違っている。普通であることは無能なのではなく、わざわざ自らの優越性を誇示する必要などないのだ。

 

なぜなら、人生とは連続する刹那であり、「いま、ここ」を真剣にダンスするように生きることだから。ダンスを踊っている「いま、ここ」が充実していればそれで良い。「いま、ここ」にスポットライトを当てて、今できることを真剣かつ丁寧にやっていくこと。そして、その結果として、何かに到達することがあるかもしれない。でも、その到達点は目的ではなく、たまたまそこまでたどり着いたということ。

 

人生はいつもシンプルであり、深刻になるようなものではない。人生に目標などなくても何の問題もない。「いま、ここ」を真剣に生きるならば、人生は常に完結している。過去を見て、未来を見て、人生全体にうすらぼんやりした光を当て何か見えたようなつもりになって、「いま、ここ」を真剣に誠実に生きないこと、それこそが人生最大の嘘である。

 

アドラーは語る、「一般的な人生の意味はない。人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ。」 そして、「世界とは他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ『わたし』によってしか変わりえない。」とも。わたしたちは、自分がいまここで何ができるのだろうかと考えながら、毎日をダンスするように生きて行きましょう。

 


幸福とは貢献感である

※岸見一郎先生の著作、「嫌われる勇気」の要約です。私自身のアドラー理解のためにやっていることですので、私の理解により見出しや文章は一部変更していることをあらかじめご了承ください。

 

「共同体感覚」を持てるようになるためには、「自己受容」、「他者信頼」、「他者貢献」の3つが必要である。まずは「自己受容」だが、これは「自己肯定」とは明らかに異なっていることに注意すること。「自己肯定」とは、できもしないのに「私はできる」、「私は強い」と自らに暗示をかけることであり、自らに嘘をつく生き方でもある。「自己受容」とは、できないのならできない自分をありのままに受け入れ、前に進んで行こうとする生き方である。我々は「何が与えられているか」については変えることはできないが、「与えられたものをどう使うか」については自分の力で変えていけるのだ。

 

次に「他者信頼」について。ここでは「信用」と「信頼」がどう違うのかに注意すること。「信用」とは、条件つきの話である。つまり、相手を信用するというのは、「あなたがそれだけ出すのなら、私もこれだけ出しましょう」と、取引していることと同じである。これに対して、「信頼」とは、他者を信じる際にいっさいの条件をつけないことだ。自分が相手を信頼するかどうかは自分の課題であり、相手がそれに答えるか裏切るかは相手の課題である。つまり、ここでも「課題の分離」ができなくてはならない。そして、アドラーの言う「他者信頼」とは、「横の関係」を築いて行くための手段となる。

 

そして、「自己受容」つまり、ありのままの自分を認めて受け入れることができて、「他者信頼」つまり、裏切られることなど考えもせず無条件に相手を信じることができれば、自分の周囲の人々は自分にとってどう感じられるか。おそらく、「私は仲間に囲まれている」と感じる。自分の周囲の他者が自分の仲間だと感じられるならば、周囲に対するいかなる貢献も苦にはならず、むしろ喜んで行える。他者が喜んでくれることが自分の喜びとなるから。それが、「他者貢献」ということ。

 

この場合の「他者貢献」とは、目に見える貢献でなくともかまわない。あなたの貢献が役立っているかどうかを判断するのは、あなたではなく他者の課題なのだから、あなたが介入できることではなく、本当に貢献できたかどうかなど原理的に分かりっこない。つまり、「他者貢献」とは、「私は誰かの役に立っている」という主観的な感覚、すなわち「貢献感」を持てればそれで良い。そして、人は「自分は誰かの役に立っている」と思えた時にこそ幸福感を感じることができる。だから、「幸福とは貢献感である」。他者から認められること、承認されることは幸福であることには関係ない。