自由とは他者から嫌われることである

※岸見一郎先生の著作、「嫌われる勇気」の要約です。私自身のアドラー理解のためにやっていることですので、私の理解により見出しや文章は一部変更していることをあらかじめご了承ください。

青年:先生は今、自由ですか?

哲人:ええ。自由です。

青年:嫌われたくはないけれど、嫌われてもかまわない?

哲人:そうですね。「嫌われたくない」と願うのは私の課題かもしれませんが、「私のことを嫌うかどうか」は他者の課題です。私を良く思わない人がいたとしても、そこに介入することはできません。(中略)幸せになるには、「嫌われる勇気」も含まれます。その勇気を持ちえたとき、あなたの対人関係は一気に軽いものへと変わるでしょう。

他者から認められ自分の承認欲求を満たそうとする生き方(=すなわち、誰からも嫌われたくないし、褒められたいと思う生き方)は、自分の人生を他人任せにすることになる。所詮、自分の周りの人すべてを満足させて、その人たち全部から認められるなんていうことはありえないし、そんなことを目指していたら、どこかで自分にも他人にも嘘をつかざるを得なくなる。できないことまで、できると言ったところで、いずれボロがでるのは必定で、その結果、自らの人生をさらに暗く苦しいもの(=不自由)にしてしまう結果となる。

だから、自由であるためには他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを恐れず、他人から承認されなくてもかまわないという立場で生きるしか他に方法はない。そして大事なところは、承認欲求に囚われていると「対人関係のカード」は、常に他者に握られていると思い込んでしまうことだ。「課題の分離」ができれば、対人関係をどうするのか(=カード)は、いつだって自分が握っていることに気づくことができる。

この本の、この部分でさりげなく書かれている以下の言葉は、私にとってアドラー心理学の最重要テーマの一つだと思います。

私が変わったところで、変わるのは私だけです。その結果として相手がどうなるかは分からないし、自分の関与できるところではない。これも課題の分離ですね。(中略)ともかく、他者を操作する手段として自分の言動を変えるのは、明らかに間違った発想になります。

巷に溢れている、アドラー心理学を使った子供へ言うこと聞かせる方法とか、部下の操縦法などと言う本は、アドラーを誤解している。アドラーを知ったら、生きるのが楽になったなんていうのも、やっぱりアドラーを誤解している。アドラーの教えは、自分の子供や他人を操作する方法ではなく、むしろ自分自身が変わることを求め、しかも自分が変わったからといって、周りが変わることなど期待していない。そういう意味ではアドラーの教えは、かなり人を突き放した厳しい考え方だ。アドラーは言う、「誰かが始めなければならない。他の人が協力的でないとしても、それはあなたには関係ない。私の助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく。」

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