「人生のタスク」とは

※岸見一郎先生の著作、「嫌われる勇気」の要約です。私自身のアドラー理解のためにやっていることですので、私の理解により見出しや文章は一部変更していることをあらかじめご了承ください。

ひとりの個人が、社会的な存在として生きていこうとするとき、直面せざるを得ない対人関係。それが人生のタスクです。アドラーは、ひとが成長していく過程で持つことになる対人関係を、「仕事のタスク」、「交友のタスク」、「愛のタスク」の3つに分けて、まとめて「人生のタスク」と呼びました。

まず、「仕事のタスク」から考えてみましょう。どんな種類の仕事であれ、ひとりで完結する仕事はありません。他者との協力なくして成立する仕事は、原則としてはありえません。しかし、対人関係の距離と深さという観点から考えると、仕事の人間関係は最もハードルが低いといえます。なぜなら、「仕事」を止めればその関係も終了可能だからです。

そして、この段階の対人関係でつまずいてしまったのが、ニートや引きこもりと呼ばれる人たちです。本人がどこまで自覚しているかは別として、彼らの核にあるのは、仕事を通じて他者から批判されること、お前には能力がないのだと無能の烙印を押され、かけがえのない「わたし」の尊厳を傷つけられることに耐えられないのです。

次に、「交友のタスク」です。これは仕事を離れた、もっと広い意味での友人関係です。仕事のような強制力が働かないだけに、踏み出すのも深めるのも難しい関係となります。友人が多いほどいいと思っている人は大勢いますが、はたしてそうでしょうか。友達や知り合いの数には、なんの価値もありません。これは「愛のタスク」ともつながる話ですが、考えるべきは関係の距離と深さなのです。

最後に、「愛のタスク」ですが、これは2つの段階に分かれます。ひとつは、いわゆる恋愛関係で、もうひとつが家族との関係、特に親子関係になります。仕事、交友と続いてきた3つのタスクのうち、「愛のタスク」が最もむずかしいでしょう。なぜなら、友人関係から恋愛に発展したときに、友達のあいだでは許せていた言動が、恋人になった途端に許せなくなることがあります。具体的には、異性の友達と遊んでいるのが許せなかったり、場合によっては異性の誰かと電話しているだけで嫉妬したりする。それだけ距離も近いし、関係も深いのです。

しかし、アドラーは相手を拘束することを認めません。一緒にいて、どこか息苦しさを感じたり、緊張を強いられるような関係は、恋ではあっても愛とは呼べない。人は「この人と一緒にいると、とても自由に振舞える」と思えたとき、愛を実感することができるのです。

ただし、恋愛関係や夫婦関係には「別れる」という選択肢があります。ところが、親子関係では原則的にそれはできない。親子関係の難しさがここにあります。ではどうするべきなのか。一番いけないのは、このままの状態で立ち止まることです。たとえそれが最終的には親子の縁を断ち切ることになったとしても、逃げずに先延ばしにせずに、どれほど困難に思えても向き合うことです。

さて、話を変えて、例えば仮に、あなたがAという人物のことを嫌っているとしましょう。なぜなら、Aさんには許しがたい欠点があるからだ、と。しかしそれは、Aさんの欠点が許せないから嫌っているのではありません。あなたには「Aさんのことを嫌いになる」という目的が先に会って(←目的論)、その目的にかなった欠点をAさんに見出しているのです。

これは例えば、恋愛関係にあった人と別れる時のことを思い出すと、分かりやすいのではないでしょうか。恋人や夫婦の関係では、ある時期を境にして相手のやることなすこと、すべてに腹が立つようになることがあります。これはその人がどこかの段階で「この関係を終わらせたい」と決心をして、関係を終わらせるための材料を捜しまわっているから、そう感じるのです。相手は何も変わっていません。自分の「目的」が変わっただけです。

アドラーは、さまざまな口実を設けて人生のタスクを回避しようとする事態を指して「人生の嘘」と呼びました。今、自分が置かれている状況、その責任をだれかに転嫁する、他者のせいにしたり、環境のせいにしたりすることで、人生のタスクから逃げている。しかし、そんなあなたの人生を決めたのは、あなたの今のライフスタイル(人生のありかた)を決めたのは、他の誰でもないあなた自身である。

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