自慢する人は劣等感を感じている

※岸見先生の「嫌われる勇気」の要約です。自分自身のアドラー心理学理解のためにやっていることですので、私の理解で見出しや文章は一部変更していることをあらかじめご了承ください。

☆自慢する人は、劣等感を感じている

学歴に劣等コンプレックスを抱いて、「私は学歴が低いから成功できない」と考えることは、逆に言うと「学歴さえ高ければ、私は大きく成功できるのだ」と言っているのと同じです。「AであるからBできない」と言っている人は、「Aさえなければ、私は有能であり価値があるのだ」と言外に暗示しているのです。これは劣等コンプレックスの持つ、もう一つの側面です。

アドラーは「劣等感を長く持ち続けることに我慢できる人は誰もいない」と言っています。劣等感を抱いている人は以下の二つの道のどちらかを選択することになります。

ひとつめは、劣等感を自らの努力と成長を通じて補償していこうとする道です。例えば勉学に励んだり、練習を積んだり、仕事に精を出したりすること。(努力して「優越性の追求」をする健全な劣等感です。頑張った自分を褒めてあげよう。)

ふたつめは、努力や成長といった健全な手段によって補償する勇気がない、かといって「AだからBできない」という劣等コンプレックスでも我慢できない、できない自分を受け入れることができない人のたどる道です。それは、あたかも自分が優れているかのように振る舞い、偽りの優越感に浸ることです。

この偽りの優越感を「優越コンプレックス」と言います。身近な例として挙げられるのが、「権威づけ」です。これは例えば、自分が権力者(学級のリーダーから著名人までさまざま)といかに懇意であるかをことさらにアピールし、それによって自分が特別な存在であるかのように見せつけることです。

あるいは、経歴詐称や服飾品における過度なブランド信仰などもある種の権威づけであり、いずれの場合にも「わたし」が優れていたり特別であるわけではありません。このような人の根底には強烈な劣等感があります。そして他者の権威の力を借りて自らを大きく見せている人は、結局は他者の価値観に生き、他者の人生を生きている。ここは強く指摘しておかねばなりません。

他には、自分の手柄を自慢したがる人、過去の栄光にすがり自分が一番輝いていた時代の思い出話ばかりする人(←こんな人、身近にもいますよね^^;)。これらもすべて優越コンプレックスだといえます。アドラーははっきりと指摘しています。「もしも自慢する人がいるなら、それは劣等感を感じているからにすぎない」と。もし、本当に自信を持っていたら自慢などしません。劣等感があるからこそ自らが優れていることをことさら誇示する必要に駆られる。そうでもしないと周囲の誰一人として「こんな自分」を認めてくれないと恐れている。

「劣等コンプレックス」と「優越コンプレックス」は言葉の響きこそ正反対だが、実際には繋がっている。そして劣等感そのものを先鋭化させることによって特異な優越感に至るのが「不幸自慢」である。こうした人たちは、不幸であることによって「特別」であろうとし、不幸であるという一点において、人の上に立とうとします。

しかし、「あなたにはわたしの気持ちなんて分からない」という言葉によって自らの不幸を「特別」であるための武器として使っている限り、その人は永遠に不幸を必要としていることになります。

☆人生は他者との競争ではない

健全な劣等感とは、他者との比較から生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるものです(⇒優越性の追求ですね)。我々が歩むのは誰かと競争するためではない、今の自分よりも前に進もうとすることにこそ価値があるのです。

我々は誰もが違っています。性別、年齢、知識、経験、外見など他者との間に違いがあることは積極的に認めましょう。しかし、私たちは「同じではないけれど対等」なのです。人は誰しも違っている。その「違い」を善悪や優劣と絡めてはいけないのです。

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